縁側で。
いい日向あります。
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無題
母さん

ボクは、ボクが死ぬまで母さんの子供です。
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テーマ:ひとりごと - ジャンル:日記

追悼の意を込めて記す
高校時代の友人が3日前に亡くなったとの連絡をいただきました。
自殺だったそうです。

彼との出会いは高校2年生、当時よくつるんでいた友人達の仲間だということで、ごく自然に一緒に遊ぶようになりました。しかしその頃は特に仲がよいということもなく、他の多くの友人達の1人に過ぎませんでした。

2人で会うようになったのは、大学受験を意識し始める高校3年生の夏。
高校をサボっては近所の図書館でともに勉強し、図書館が閉館したあとは彼の家に行き青臭い議論を交わしたものです。

そのような関係は2人して浪人した19の冬まで続きました。
彼も私も、それほど勉強ができたわけでも、また好きだったわけでもなかったのですが、口ばかり達者な2人でした。
当時は東西ドイツを隔てていた壁がなくなり、また旧ソ連が劇的な崩壊を遂げた・・・、世界的にも激動の時代だったのです。
彼と私は、今ではすっかり聞くこともなくなった「アパシーヤング(無気力な若者)」という言葉で表されるような世代でしたが、埼玉の片田舎にある彼の家では、お茶をすすりながら、またシケモクを煙らせながら世界情勢について熱く語っていたのです。
世の中を何も知らない、また世間的には何も持たない2人だったからこそ成り立っていた関係なのかもしれません。

そんな彼と私の関係は、私の大学合格を機に微妙に変化していきました。

彼はその後、何度か大学受験に失敗し、入学後はアパートで1人暮らしをしていたようです。その頃は、彼が帰省している間、たまに会うという関係になっていました。

その頃だったでしょうか。
どのような時期だったかは記憶が定かではないのですが、彼は私に懺悔めいたことを語り始めました。

自分は口先ばかりのペテン師だと。

そのとき既に彼の精神は何かに冒されていたのかもしれません。
私には何らの手を差し伸べることもできませんでした。

その後、彼とはすっかり疎遠になりました。
最期に彼に会ったのは、もう5年ほども前になるでしょうか(もう少し前かもしれません)。
ある居酒屋で2人で飲みました。
正直言って、そのとき何を話したのかあまり記憶がありません。
ただ、いわゆるニートだった彼は、それほどふさぎこんでいる様子でもありませんでした。得意の虚勢を張っていたのでしょうか。あまり覚えていません。きっと他愛のない話をしてすごしたのだと思います。

私がこんな文章を書くことに、どんな意味があるのか・・・、自分でもわからずに書いています。

ひょっとしたら、彼に許しを請いたいのかもしれない。
ひょっとしたら、彼を責めたいのかもしれない。
ひょっとしたら、自分の無念さを慰めたいのかもしれない。

勝手な推測ですが
彼は世間という見えない敵と必死に戦っていたのではないかと思います。
彼は絶望感や無力感と必死に戦っていたのではないかと思います。
彼は孤独や先の見えない不安と必死に戦っていたのではないかと思います。
本当のところは、彼の心の中にしかなかったのでしょう。
今となっては確認する術もありません。

明日、お通夜があります。

今頃、彼は悲しむ遺族の前で静かに眠っているのでしょう。
ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

でも、最期に一言だけ勝手なことを書きます。

ばかやろう。

テーマ:ひとりごと - ジャンル:日記

人生の果実
どういう化学反応が自分の中に起きたのか全くわかりませんが、宇多田ヒカルを聴きながら、初めて入ったラーメン屋でうまくもないタンタン麺を食っていたら、突然母のことを思い出しました。

筋の通らないことが大嫌いだった母は、頑固なところもありましたが、その反面周りの人間への心配りを欠かさない人でした。

人生を樹に例えるなら、目立たない場所に根をしっかりと張って立つ低木のような気がします。周りの環境に多くのものは与えられないけれど、強い日差しの日には木陰を、秋には自らの葉を落として土に栄養を、雨の多い季節には土壌の水分量を調整しと。

そうやって生きてきた母は、人生の果実を少しでも味わって逝ったのでしょうか。

俺は何かを少しでも返せたんでしょうか。

母が亡くなってから、母を思い出すたびに後悔することがあります。

どうして一言、「産んでくれて、育ててくれてありがとう」と伝えられなかったんだろう。
そんな言葉が母にとって大きな果実になったかもしれないのに。

今、家族が癌と闘っているという方へ。
どうか、その方の人生を全肯定する言葉をかけてあげてください。
脳梗塞、心筋梗塞の防止
脳梗塞や心筋梗塞を予防するのに、夜寝る前と朝起きた直後の一杯の水が大変効果が高いそうです。
知人の医師から教えられたことで、医学的な根拠もあるとのこと。

母の闘病期間6ヶ月中、最初のほぼ3ヶ月は脳梗塞による左半身麻痺によって、不自由な生活を強いられました。奇跡的・驚異的な回復により、杖こそ突いていましたが、ひとりで歩けるまでに回復しましたが、そんな期間は、わずか一月あまりに過ぎませんでした。


末期癌を宣告された者やその家族にとって、様々な治療を試みるにせよ、静かにあるがままを受け入れるにせよ、暮らし慣れた家で家族とともにいられるということは、とても大切で貴重なものだと思います。


こういうことを医師もわかっていたのでしょうね。脳梗塞で入院した病院で命に別状はないことがわかってから、すぐに退院できると言ってくれました。


結局、母がトイレに行く途中で転倒し脚の骨をおってしまったため早期の退院は叶いませんでしたが。。。
気丈な母でしたから、ひとりでトイレに行こうとしたのは、少しでも身体を動かして回復したいという思いや、看護士さんに手間をかけたくないという思いからだと思います。

当時の私たち家族としては、早期退院を示唆されたとき、なんだか病院が手の施しようのない末期癌患者を見捨て、放り出すつもりかと、大変うがった見方をしたのを覚えています。
今にして思えば、なぜすぐにでも退院できるよう手をつくさなかったのかと悔やまれてなりません。
緊急時の対応
「血圧の急激な低下や呼吸停止などの緊急時の処置について、家族でよく話し合って決めておいて下さい。」

これは、母が大部屋からナースステーション隣接の部屋に移された頃に医師から言われた言葉です。最初は意味がよくわからなかったのですが、要は心肺停止時の心臓マッサージや人工呼吸器の使用についてでした。特に人工呼吸器については、一度つけたら(亡くなるまでは)人の手で取り外すことはできないことをとても強調されていたと記憶しています。

最初は、少しでも長く生きていて欲しいとの願いから、緊急時の措置をしていただくようお願いしていました。

でも

その後、家族でよく話し合い、一切の延命措置をお断りしました。

色々とご意見はあるでしょう。とても決断の難しい問題です。

ただ

この決断に後悔はありません。今、思い返してみても、そのことに変わりはありません。

でも当時は、相当に悩みました。だって、この決断を迫られたとき、まだ母は、弱ってはいても、水を飲んだり、話をしたり、孫に笑いかけたりできる状態だったんです。このような状態の時に、母の最期の瞬間を想定して、しかも命に関わることを考えるのは本当にしんどかったですよ。

もうすぐお盆ですね。久しぶりに母が家に帰ってきます。母の好きだったものを霊前に供えようと思っています。
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